生きるのをもっと楽に、楽しく

1976年生まれの男性。 コピー機メーカー勤務の会社員です。 いろいろ生き辛さを感じていて、ちょっとずつでも生きるのを楽に、 そして楽しくしていきたいなぁと感じています。 このブログを通じて波長の合う人とつながれればいいなぁと思っています。

3・11から10年【当時の自分を記録しておく】

東日本大震災から10年です。

会社には半旗が掲げられていました。

西日本に住み、ほぼ影響の無かった私もこの日のことは覚えています。

後の自分のために、私の2011年3月11日について書いておこうと思います。

 

この日は金曜日。

小学生の娘をディズニーに送り出すため、夕方4時頃には家に帰る予定にしていました。

その日は午後半休を取り、4時までの間、マンガ喫茶でくつろいでいました。

そして2時46分。

こちらでも震度3くらいの揺れでした。

震度は軽い。けど長く、不気味な揺れでした。

 

「兄ちゃん、これ 地震かぁ!?」

 

と叫ぶおっさんの声が印象的でした。

急ぎテレビをつけます。NHK。

地震の時の定例で定点カメラが中継で映し出されます。

確か、青森の漁港だったと思います。

いつもの地震時って、そうそう景色は変わらないんですよね。

しかし、この時は違いました。

漁船がなんか、動き出しました。

ん?って思って見ていると、海がぐるぐる渦を巻きはじめて、多くの船を巻き込み始めました。

船がぐるぐる回ります。

まるでお風呂のおもちゃのごとく、ぐるぐる回ってました。

高速道路の高架下では、早送りでも見ているかのごとく水位が上がり、これまたミニカーみたいに車が次々に水に飲み込まれていきました。

 

え、これ、中継よな?早送りと違うんよな?

 

と何度も思いましたが、それでも認識がついていきませんでした。

 

えらいことになった。

 

と思いながら夕方家に戻ると、娘が突っ伏して泣いてました。

ディズニー行きが中止になったからです。

岡山から義母がやってきて、新大阪で引き渡す予定だったんですよね。

当時はかわいそうだと思いましたが、今考えるとラッキーでした。

これが1日早かったら娘は東京に取り残されて、帰ってこれなかったはずです。

 

この後私はインフルエンザにかかり、別室に隔離されていました。

当時ずーーーーっと津波の映像が流れていたので、夜中、ずっとそれを見ていました。

真っ黒な海水が、堤防を突き破る映像を忘れることができません。

 

 

これが私の3・11の記憶です。

何の凹凸も物語もありませんが、印象には残っています。

 

voicy.jp

 

代わりと言ってはなんですが、本日のちきりんさんのVoicyを。

震災当時に書いたブログの朗読です。

 

「そんじゃーね」

 

で締めくくっていないのは、後にも先にもこの時だけだったそうです。

 

「日本人って、すげーな」

 

って、改めて思いました。

 

今さらながら、ちきりんさんってすげーなーって思います。

マナブさんも、ちきりんさんの著書 全部読まれているそうです。

Voicyもほぼ毎日更新されていますね。

相性が良かったのかな。

有意義な話が毎日聞けて、とても嬉しいです。

(勝間さんは、全然更新されないなー・・・)

 

chikirin.hatenablog.com

Voicyで朗読された記事はこちらです。